それぞれの気持ちのやり場

それぞれの気持ちのやり場
30代 けーこちゃん

 

腰が痛い、と85歳の祖母が訴えたある日、母の付き添いの元、地元の整形外科を受診しました。
レントゲンも撮って見てもらった結果、加齢から来る腰痛だろうということで、
病院の送迎バスに乗って毎日通うことになりました。

 

病院では電気をかけて、マッサージをするというもの。
すぐに良くなることは期待していませんでしたが、
初日バスに自分で乗れていた祖母が、
3日目には介助が無くてはバスのステップから上り下りが出来なくなっていました。

 

「痛みがこの前よりひどくて」

 

医者に通っているのに痛くなっていると医師に伝えることは出来なかったようで、
違う病院で見てもらうことにしました。

 

結果、骨盤の内側が骨折していることが判明。
コルセットが出来ない場所で、処方されたのは痛み止めと湿布でした。

 

出来るだけ安静にするようにと言われた祖母でしたが、
寝ても座っても痛くてたまらないようで、
次第にベッドに仰向けのまま一日を過ごすという生活になってしまいました。

 

トイレやお風呂ができなくなり、母がメインに祖母のお世話をすることになりました。
私も外に嫁いでいましたが、食事の介助や買い物などを引き受けました。

 

祖母は元々口数少なく、父や母の考えを優先する人だったので家の中での嫁姑関係は悪くなかったものの、
十数年前、祖父が亡くなったときにふさぎ込んでしまった祖母を慰めようとした母に対して、
「私の気持ちなんてわからないくせに」という一言で、
母から祖母に対してのしこりが生まれてしまって、
何かにつけて冷たい言い方をする母が介護をすることを私は心配していました。

 

ある日、祖母の様子がおかしいということに気づいた母が、
父に対して「病院へ連れて行ってくれ」とお願いをしていました。
その日は母は親戚のお葬式にお手伝いに行かなくてはならず、付き添いが出来ないと。

 

父は父で、出張の予定があったため、渋っていましたが、
何とかやりくりをして始めて祖母の付き添いをすることになりました。
そこで父が医師から言われた言葉は祖母が脳血栓を発症しているということと、
「母親と仕事、どっちが大事なんですか」という言葉。

 

多分、父は医者の前でも仕事をやりとりしたことを愚痴ったのかも知れません。
大変ですね、とねぎらってもらうどころか逆に怒られてしまって、しょげて帰ってきました。

 

私も時間があるときは、出来るだけ両親の愚痴を聞くようにしました。
父の前では父の味方をし、母の前では母の味方をしました。
そしてそれとなく、お互いの大変なところを私を介して伝えるようにしました。

 

段々と両親の家の中での役割が決まってきて、
病院への送迎付き添い、家の中の掃除や家族の食事は父が、
祖母の食事や排泄介助、役所の人との面談などは母がと落ち着いてきました。

 

祖母は、自分が生活の中心になってしまっていることを嘆いているらしく、
トイレの介助をしてくれている母に毎回といっていいほど泣きながら
「汚い仕事をさせてごめんね」と言うの、と母が言ってきました。

 

ご飯を介助している私にも祖母は自分の不甲斐なさを愚痴っていたので、
その都度、体の痛みがつらいことに対して同調しつつ、
治ったらまだまだおばあちゃんには家のことやってもらうから!と冗談交じりで励ましました。

 

祖母が回復するまでの1年ちょっとの短い介護でしたが、
この先、自分たちが親を看取るという介護と対面しなくてはならない時がきたら、と
両親は具体的に話し合うようになり、
家のリフォーム、手続き関係についての検討を始めました。

 

段々と祖母の腰の痛みが引いて、リハビリもかねて家の中をゆっくりと歩けるようになった頃、
母から「あんたがうまく話を聞いてくれたから、自分もおばあちゃんの面倒を見れた」と言われました。
「お父さんもな、あんまりいらいらしておばあちゃんを泣かせたこともあったしな」と父。

 

祖母と二人でご飯を食べているときに、
「体が治って動けるようになったら、まだまだみんなの役に立たないとね」と
前向きなことを言ってたのがとても嬉しかったです。

 

子どもが成長して段々と手が離れていく育児とは真逆の、
段々と出来ていたことが出来なくなっていく、それがいつまで続くかわからない介護は、
介護する人も介護されている人も段々と暗くなっていきます。

 

心の息抜きが出来て、そして負担を分かち合うことが出来る関係を作るのは時間がかかりましたが、
どんな形であれ、一人で抱え込まないという環境は大事だなと思いました。